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蔵について

蔵について

創業 天保八年(西暦1837年)

【銘柄の由来】
遠く英彦山(福岡県)を源とする今川(福岡県周防灘に注ぐ)の中流で山紫水明のほとりに位置し、天保8年(西暦1837年)の創業にして当時は『若草』の名称で近郷まで親しまれ、牛馬の背にて運ばれたものです。

先代が殊の他菊を愛し、又、その馥郁たる薫を好み菊は栄えると云うことで九州菊と改称(昭和10年)以後、小企業ながら飛躍を続けて来ました。
最近、業界の厳しい変動の中で九州菊は長年の信用と皆様の御愛顧に報ゆるため、鋭意品質の向上改善を図り、地酒九州菊として生産販路の拡大に努力し現在に至って居ります。

蔵の歴史について

蔵の紹介

創業は1837年(天保8年)。 この頃、 天保の大飢饉(1833年から1837年)の時代で、日本各地で米価の高騰、農村の荒廃ははなはだしい時期でありました。小倉藩内でも飢饉の状態となりました。 さらに、追い打ちをかけるように天保8年正月 小倉城本丸、天守閣を火災で焼失させる事件が勃発。 当然、藩の情勢も苦しく、幕府から藩の窮状には構いなく大規模な河川工事の名が下るなど、大変な時代でした。 この小笠原藩小倉城の焼失の年に、藩内の中津郡に「林酒造」が誕生しました。

3業の営みから酒造へ絞り込み

林龍平酒造の創始者は林熊太郎。 熊太郎の父 林平作は、庄屋兵右衛門の次男として生まれ性格は温厚で、親切な人であったそうです。 人と争うこともなく、若くして家の資財を分けてもらい、この資財を生かして、自ら諸雑貨を担い、商いをしたところ、たちまち人の信頼を集めて、数年も経たずに町の豪商となりました。
また商売の規模も多岐にわたり、その当時は、酒造、しょうゆ、蝋の3業を営んでいました。 この平作の娘カツの婿として養子に来た熊太郎がその後、3業の営みから酒造に絞り込み、 本格的に酒造業に取り組んでゆきます。

銘酒「若草」から「九州菊」へ

昭和10年、林酒造が一新。銘酒が「若草」から「九州菊」に変りました。 命名したのは、林酒造3代目林九郎。植物の中で一番好きな菊を名につけました。 また、菊の漢名は「究極」を意味することもあり、究極の酒にならんとする思いがあったのかもしれません。
京築地区で、酒造業者のほとんどが廃業においやられる中、毅然と郷土の銘酒「九州菊(くすぎく)」を根つかせていきました。 昭和30年には行橋酒販会社を設立し、社長として6年間業績の伸張に努力』しました。 行橋酒販会社は2004年に林酒造4代目林平作が引き継ぎ、2012年以降、5代目林龍平の弟剣司郎が社長を務めています。

九州菊の煙突

「九州菊(くすぎく)」と書かれた煙突。 昔、炭鉱が全盛期の時、酒を造るために使っていた煙突です。 時代が流れ、石炭から石油へとエネルギーが代替する中、この煙突も使用されなくなりましたが、今もなおこの煙突は林酒造場のシンボルとしてそびえたっています。

杜氏の紹介

当酒造場のある犀川崎山地区は周囲を山に囲まれだ静かな土地で、豊かな自然に恵まれています。おいしい酒ができる条件は、水がよい、米がよい、人がよい、といわれています。 当酒造場の酒は霊峰英彦山の伏流水と、蔵のそばを流れる今川の流域をはじめとする良質の米、そして酒造りの伝統を受け継いだ杜氏(とうじ)、蔵人の技で作られています。

杜氏

水城 数弘

昭和24年生まれ。朝倉市出身。いくつかの蔵でその技量を磨き、 2012年退任された山元杜氏の後を受け、同年10月より当酒造場の酒造りに たずさわっています。特に、毎年11月中旬から始まる仕込み・造りは4月頃まで続き、 この間は睡眠もあまり取れません。
経験豊富な新杜氏の水城さんは、「経験はあっても、酒造場ごとに、人も水も 空気も違う。常に従来と同じように造ることは難しい。いかにこれまでの品質を踏襲し、そして更に高めるか、気が休まることはありません」と話している。