こんにちは!林田です。
幕末より受け継がれた伝統の味をご賞味下さい。
店長日記では、イベントのお知らせや様々な事を記載して行きます。
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注)下記文中の「林酒造」は現在の「林龍平酒造場」です。
今川に沿って車を走らせると見えてくるのは「九州菊(くすぎく)」と書かれた煙突があります。遠くから煙突が見えると懐かしい感じがいつもします。昔、炭鉱が全盛期の時、酒を造るために使っていた煙突です。時代が石炭から石油へとエネルギーが代替する中、この煙突も使用されなくなりましたが、今も尚この煙突は林酒造のシンボルとしてそびえたっています。
1837年創業。銘酒「九州菊(くすぎく)」を造る林酒造。平成筑豊鉄道路線、また今川沿いから見られます。
福岡県京都郡崎山、京築管内唯一の造り酒屋「林酒造」をご案内します。私は、母の実家であるがゆえに知っていますが、福岡県に住んでいても崎山といってわかる人は非常に少ないのは残念です。「福岡県に住んでいてもこんなに知られていないのかぁ」といつも寂しくなります。崎山は、英彦山を源とする今川のほとりに位置します。この地は、西の赤村を経て秋月また大宰府へ、東は行橋から瀬戸内各所へつながり豊前国における重要な交通路として、江戸時代には「秋月街道」と呼ばれ賑わいました。北九州市から香春町・田川市・山田市・嘉穂町・甘木市を経由して久留米市へ通じ、江戸時代初期までは豊前と筑前、筑後を結ぶ天下道でした。同じく豊前小倉から筑前・肥前方面へ至る長崎街道が整備されていなかったころ、秋月街道は古い「長崎街道」の役割も担っていました。
創業は1837年(天保8年)。この頃、日本各地では天候異変が続き、小倉藩内でも飢饉の状態となりました。さらに、追い打ちをかけるように天保8年正月の小倉城本丸、天守閣を火災で焼失させる事件が勃発。藩の情勢も苦しい状態でしたが、幕府から藩の窮状には構いなく大規模な河川工事の名が下るなど、大変な時代でした。奇しくも、この小笠原藩小倉城の焼失の年に、藩内の中津郡に「林酒造」が誕生しました。
林酒造の創始者は林熊太郎とされ、林平作の娘、カツの夫にあたります。林平作は、庄屋兵右衛門の次男として生まれ、性格は温厚で親切な人であったそうです。人と争うこともなく、若くして家の資財を分けてもらい、この資財を生かして、自ら諸雑貨を担い、商いをしたところ、たちまち人の信頼を集めて、数年も経たずに町の豪商となっていきました。また商売の規模も多岐にわたり、その当時は、酒造・しょうゆ・蝋の3業を営んでいました。
母からの話によると、平作の娘カツは、おカツばあさんと呼ばれ、いつもキセルを吸っては「かっ、かっ」と灰を落とし、気の強いおばあさんであったようです。そこに養子としてやってきたのが熊太郎。おかつの婿にと見初められていることから予想すると、とても気のやさしい青年であったのでしょう。曾孫である平作と一緒に写っている写真をみるに、おカツばあさんとは昔にしては随分長生きだったようです。後には、3業の営みから酒造に絞り込み、本格的に酒造業に取り組んでいきます。
昭和10年、林酒造が一新し、銘酒が「若草」から「九州菊」に変りました。命名したのは、私の祖父にあたる林酒造3代目林九郎。植物の中で一番好きな菊を名につけました。また、菊の漢名は「究極」を意味することもあり、究極の酒にならんとする思いがあったのかもしれません。
祖父は、京築管内で、酒造業者のほとんどが廃業においやられる中、毅然と郷土の銘酒「九州菊(くすぎく)」を根つかせていきました。昭和30年には行橋酒販会社を設立し、社長として6年間業績の伸張に努力し、甥に譲りうけ、2004年に平作さんに譲り現在にいたります。酒造り、そして卸売りラインを林酒造でおさえるためでした。
一方、時流に敏感な九郎は、苅田町に自動車学校を創立し理事長をつとめました。何事にも、徹底的にうちこむ姿勢をもった人物であったようです。
またこんな話もあります。いつも事故がおこる道がありました。路の脇は崖になっており事故がたえなかったそうです。その度に、たくさんの花やお供え物が供えられていました。ある日、お稲荷様を誰かがおいたら事故はなくなったのだといわれています。九郎は、その場所に人が参れるようにと神社をもうけました。赤村と犀川の境界にある岩嶽(いわたけ)稲荷です。神社には林九郎の像が今も尚入り口脇におかれています。母(九郎の次女)によると、実物よりもずいぶんハンサムな像となっているようです。
写真左ー岩嶽(いわたけ)稲荷・写真右ー林九郎の銅像。
幼い頃に母をなくした九郎は非常に信心深く、人を家に呼んではお坊さんのかわりにお説教をしていました。聞きにきた者は、振舞われるお酒を目当てにきていましたが、そんなことはお構いなしで自分の好きなお説教をしていました。お経を唱えるもこのうえなく音痴な九朗は音程を外したお経を読んでいました。子どもたちは音程のずれたお経を覚えており、母も、正しい音程でお経が上げられるようになるのにしばらくかかったようです。
お酒を飲んで隣の家に間違えて入っては朝まで寝ていたり、出かけてきては自分のよりもよい(人様の)雪駄をはいて戻ってきたり、怪我人を自転車の後ろに乗せて病院へ送るも、着いた時には怪我人を道の途中で落としてきていることに気がつくような祖父であったけれども、町の人からこのうえなく愛されていました。そして、地域のために尽力を尽くした九郎が愛されるように、「九州菊」も地域に愛される酒となっていきました。
しかし林酒造にも厳しい時代が参ります。次回、引き続き「九州菊」の昔話におつきあい願えれば幸いでございます。
水と米は極めて重要な酒の主原料です。
米は、酒用に造られた酒米と呼ばれる米を使います。酒造好適米は、山田錦・美山錦などがあげられ、これらの品種は、気候や風土を選ぶものが多いです。また、生産地や生産量に限りがあるので、割高になります。産地によりけりで、高ランクのものは入手が極めて難しいのです。また、たくさんの地産米も林酒造では使っています。
名水どころに名酒ありといわれるように、良質な水なくしておいしい酒はできません。酒の味は水のよしあしによってきまるといっても過言ではないのです。林酒造には、英彦山からの伏流水をひく井戸があります。酒造りに適した名水の条件は、麹菌と酵母の働きを助ける水、それらの栄養となるカリウムとリン酸、そしてマグネシウム・カルシウムなどの成分が多く含まれている水がよいとされています。さらに水には硬水と軟水があり、硬度区分されます。硬度とは水にふくまれるカルシウムイオンとマグネシウムイオンとの含有量の合計のことを指し、一般に硬水だと辛口の切れのよい酒(男酒)、軟水だと甘口でマイルドな酒(女酒)ができるといわれます。良質の水の確保が酒造りには重要な条件です。林酒造の水は硬水です。酒造りに最高の水が絶えることなく井戸よりこんこんと湧き出ています。
幼いころに、母親をなくした九郎は、はやくに武道に打ち込みました。柔道また剣道については小学校から始め、中学校卒業までに剣道6段を習得、家業のかたわら屋敷内に剣道場「練心館」を建てました。長男(4代目)平作は、現在教師(7段と8段の間)となり、孫・曾孫も門下生ですが、門下生には非行者はいないといいます。また、碁にも励んでいたようです。5代目の龍平(私の従兄にあたる)にいわせると、碁をしている祖父しかみたことがないと……。ビジネスの展開がうまかったのは、碁で陣取りの業を覚えたからであろうかと思ったりもします。
林酒造の横に位置する剣道場「練心館」では剣道を通じて、門下生に剣道を通じての心の指導をします。「心が変われば、行動が変わる。行動がかわれば人生が変わる」という言葉を耳にしたことがあります。
「剣は心なり 心正からざれば 剣また正しからず
剣を学ばんと欲すれば まず心より学ぶべし (練心館道場訓)」
剣道をすることで心の鍛錬を行い素晴らしい人間になって欲しいとの願いがこめられて名付けられた道場。この道場では「技より心を磨く」ことに重点を置いています。九郎の息子、平作は剣道8段、その孫は5段、また曾孫も剣士です。剣道場には、月曜日から木曜日まで門下生が練習に励んでいます。無償でおしえているために、季節になると門下生の御家族から野菜などが届き、季節の野菜で家は一杯になります。同じころに同じ野菜をいただくため、その野菜のおすそ分けを我が家も設けています。「剣道は基本が大切である。技術は後で。まずは、日常生活や剣道に取り組む姿勢を最初に身につけることが大切だ」と指導にあたる従兄弟、龍平はいいます。生徒それぞれにどう教えるか試行錯誤しながら指導にあたっています。練心館道場の文字をみると私はいつも思うのです。「心の鍛錬」を果たして自分がしているだろうかと。忙しさにかまけて自分を見直す時間がないのではないかと思うこともあります。会うことはなかった祖父が孫の私にも考える機会をこうやって与えてくれているのでしょう。
昭和34年、地方の酒が全国どこでも手に入るようになりました。逆に大手の酒も地方で手に入るようになっていきました。大手メーカーは造れば売れるという時代になり「樽買い・樽売り」という、地方蔵が産した酒を自社醸造主としてマーケットにだしていきました。酒は、瓶につめた時点で課税対象となります。それゆえ、大手メーカーにとっても地方蔵にとっても、経営上での利点があるのです。しかしながら、そういった売り方は地方蔵のもち味をどんどんと薄めていきました。大手メーカーの指示のもとで造られていったからです。そんななか、樽売りに頼っていた地方蔵は、大手メーカーとの取引がなくなると姿を消していきました。
このような中でも、林酒造は生き残っていきました。地域に根付いたのは、地域に生かされ、地域に生きる酒蔵であったからです。そして、自分の銘柄でいけるという気概があったから。さらに、行橋酒販会社のおかげで、販路を確保したことも生き残れた要因です。
林酒造は、地元の人にいかに喜ばれるような酒造りをしようか、と今も昔も奮闘しています。崎山の農組合や農協と酒造場が一体となって、酒造りに取り組んでいます。その他にも地元犀川米を使っての酒造りにも力を入れています。コストや米の質だけでなく地域に与える影響をも考慮にいれているのです。「地酒とは、地元の人に愛されて、かわいがってもらってはじめて地酒といえる」としばらく前に従兄弟、龍平が言っていたのを今思い出しました。納得です。ありがたいことに、京築管内で林酒造の銘酒「九州菊」といって知らない人にあまりお目にかかったことがありません。行橋エリアのどのレストランに入っても九州菊はおかれていました。看板に九州菊とかかれているところも少なくありません。さらに、ごみ分別で「九州菊」用の瓶分別があったときには、正直こちらもたまげてしまいました。地域に生かされ、地域に生き、そして、九州菊は地酒蔵として愛されているのがみてとれます。
私は、北九州市小倉にて九州菊の特約店として酒販業を営んでいます。従兄弟が林酒造(造り)・行橋酒販会社(卸)、そして我々は小売を営んでいるのです。京築エリアから離れた小倉にも九州菊のファンがたくさんいます。「遊友会」と呼ばれる会を林田酒店主催で11年ほど前から開いています。先代、林田正義がはじめ、地産池消を元に、地米で酒を造ろうというものです。このとき造られるのは「さきやま」という地米を使った酒。6月の田植え・果物狩り、11月の稲刈り・野菜堀り、そして2月の新酒会とジャズを楽しむ会を催しています。子どもに農と食を学ぶ機会を与え、また新酒会では親も大いに楽しむ会となり、新酒会にいたっては120名のいりとなりました。北九州に住む九州菊のファンがボランティアとなりこの会を手助けしてくれているのです。本当にありがたいです。
地域にかわいがってもらえる酒であり続けるために、また、福岡の地酒・九州の地酒、さらには、日本の酒となるべく日々邁進します。そんな私たちを九郎じいちゃんは、九州菊を飲みながら、碁をうちうち、上からのぞいているのでしょう。私は煙突を見上げました。そこには、雲ひとつない空が大きく広がっていました。